こだわりと嫌悪感

というわけで、ちょっととあるTweetから感じるところがあったので、今回は取り留めない心情的なお話。

タイトルで示している通り、「こだわりと嫌悪感」です。
まぁ、こういった話では、ヲタ属性とアスペルガー症候群の話をよく対比して話されるわけなんですが、それが障害なのか云々はひとまず置いといて、自分的なものの感じ方などを。

おいらの場合、何か特定のものにこだわるっていうよりは、節操なく何でもツマミ食いして、それが予想外に長く続くものが淘汰されただけってことが往々にして多いんです。

DJやってたときもそうでしたし、Remixをはじめとする楽曲制作にしてもそう、アニメも見ればテレビドラマや映画も好き。お笑い番組も見れば、アイドル好きも昔から何ら変わったものではありませんw

巷でさんざん苦言を呈されている韓流モノについても、ドラマなど面白いものは面白いし、くだらんものはくだらん。楽曲についてもそう。

しかし、そんな節操のない好奇心旺盛っぷりな自分でも、カラダはひとつ。財力も時間も限られているわけで、興味を持ったことに対してまんべんなく完璧にというわけにはいかんですし、どこかを切り捨てなければいけない。

コンテンツそのものを切り捨てるわけではなく、時間経過の中で優先順位が変わるってだけの話。
人の好みに影響されてってこともありますし、メディアの戦略に確信犯的にのることももちろんある。

が、それは元々培ってきたものの枝葉の部分で心の琴線に引っかかったもの。きっかけはすべて些細なものの積み重ねなんです。

何もないところからいきなり確立されたアイデンティティなんてありえません。
必ず何かしら周りの環境の影響を受けて成長、確立されていくもの。

家族然り、交友関係然り。

ボクが今やっていること(生活・仕事・趣味)は、例え形として他人に認識されずとも、着実にこれまでの経験すべてが動員されて形成されているもの。

取捨選択はあって然るべきものとは思いますが、時代の遷移、時勢に応じて過去の資産が生きることもあることを本能的にわかっているのだと思います。
有形のツール、無形の知的財産において、繰り返し試行錯誤しようという姿勢が、ボクの芯になる部分なのだなと。

そんな中で制作活動に焦点を当てた場合、現在、当方ではAKB48楽曲ばかり二次創作的に扱っているわけですがw、AKBに限らず、更には邦楽・洋楽問わず、ここ20年近くオリジナリティを感じるものはホントに稀だと感じています。
既存のものの焼き直しだったり、明確なフィーチャーコンセプトだったり、あからさまなパクりであったりwww

ただ、その組み合わせとバランスによって、新たな価値観が創造される。

そういった面で言えば、元々のコンテンツの潤沢さというのは大いに魅力なんですね。
カテゴライズされた中で…いわゆる縛りのある中で「ネタ」になるものがたくさん存在し、また、そのリレーションも無数に構築できると。
今、AKB関連コンテンツにある種のこだわりを見せているのは、数が多いが故の魅力なんだと思いますね。

ファンも多種多様なので、ウケる部分が様々。その反応が楽しいのです。

思えば、潤沢なコンテンツの縛りネタ探しという点においては、EUROBEATやPARA PARAなんて、その極致じゃないですか。
プロモーション的な意味での曲の「レーベル縛り」、振りの「店(サークル)縛り」。

縛りのある中で、Remixやフレーズを汎用ユニット構成する作業というのは、きっと自分の気質にも合ったものなのでしょう。

そういう創作活動において、感銘を受けたり、影響を受けたりする人はたくさんいます。
しかし、全く同じものを作れるわけでもなければ、その人になれるわけでもない。
積み重ねたものが違うんですから、それは至極当たり前のこと。
それこそが作風であり、アイデンティティであると思っています。

超えるわけでもなく、壊すのでもなく、新たに林立させること。

いろんな価値観が交錯するのだからこそ楽しいんじゃないんでしょうか。
そういった中で脚光を浴びるものは浴びるだろうし、淘汰されるものは淘汰される。

世間においても、自分の中においても。

それこそが正常な競争原理。

マイペースは自覚してますが、他人の感情を無視したものではないということです。
多数の人間の心情は時間軸で形が変わるパズルのピースのようなもの。
最大公約数的にどれだけ早い時間で形を把握し、組み立てられるか。

ムーブメントの中心にいる人っていうのはそういうのに長けた人、長けた集団なんだと思います。
それは大げさな話ではなく、例えば、ありふれた日常生活でそういうのを本能的にちゃっちゃとやる人って、いわゆる「コミュニティ力が高い」ということなのでしょう。
人の心の隙間や文章の行間を読むのが天才的な人。真のニーズを汲み取ることができる人。

趣味に限らず、人間関係全般において、いろんな側面においてそういう風でありたいと思いますし、自分が知らない価値観はできるかぎり踏み込んでみたいとも思います。

飛躍しますが、簡単に言うと、無意味に露骨な嫌悪感を抱くことは、それらの機会を放棄すること。結果、損する事の方が多いんじゃないかな~と思うのです。
当然、あくまで個人的な意見ですが。

余談ですが、逆に相手の言葉の行間を読もうと勝手に妄想の域に突入して、話が支離滅裂になる人もいるんですけどねw

 

ある事象に病的にまでどっぷり浸かって、他人の価値観を排除って人もいるでしょうが、自分も含め比較的ライトに楽しんでいる人もいるわけです。
それらを一括りにして…意に反してカテゴライズされたものをバッサリ斬るってのは何だか違う気がするのです。
その相手にとって、自分が他の側面も含めて価値のない人間というのであれば、仕方ないことなのですが。

ボクの話に共感を覚える人もいれば、きっと反感を覚える人もいるでしょう。
でも、それでいいと思うのです。

結果がどうこういうよりも、そのとき自分がどう感じたのか、どう行動したのか、そういうプロセスこそが大事だと思うので。

縁があれば、きっとどこかでまた接点ができるでしょう。これまでもそうでしたし、これからもそうなのだと。

アイデンティティのぶつかり合いこそが人生そのものなのですから。

 

人の好みというものは歪な形のアイデンティティという「皿」が互いに回転しているイメージ。
各々回転速度は違う。
故に共感の糊代の大きさは時間軸で変化するもの。
しかし、回転している以上、めぐり巡ってまた同じような糊代を形成する。

つかず離れず。
来るものは拒まない。去るものは追わない。
帰ってくるものは帰ってくるし、元々糊代の面積が狭い関係はその後も邂逅する確率もめっぽう少ないってだけの話。

その人を心から知りたいっていうのであれば、お互いの回転の中心軸を動かすしかないのだ。
付け焼刃的に糊代の面積を溶接して拡大しても、それはそのときだけのもの。
いつかは剥がれ落ちるし、剥がれずとも過ぎ去り、重ならなければ面積の大小は関係ない。

 

ただひとつ、自分が他人に活かされているということだけは忘れずにいたいし、活かしてくれている人には相応に活かしてあげたい。

 

…と、取り留めない話をただ取り留めなく膨らませる真夏の夜でした(^ ^)